「こころ旅」、しみじみ南陽
月曜日だけ入れてもらうこども園の朝礼、ちょっとだけ語らせてもらえるので、30日は「火野正平のこころ旅、今週は山形県。今朝見てきたけど、南陽にも来るかもしれない。朝はみんな見れないだろうけど、7時からのとうちゃこ版はぜひ見てみて下さい。どうっちゅうことないといえばどうっちゅうことないんだけど、そのさりげなさがなんともいい。故郷の風景をテレビを通してみることで、自分の住む場所や人を見直すことになるかもしれない。」と言ったところでした。
そしたらその後「6月1日は南陽が目的地」の情報。1日は熊野大社の月例祭、そのあとこの日は「あいさつ運動」で街頭で登校の小中生に声がけしなければなりません。7時45分は見れなくて、11時半からの再放送をみることができました。
《正平さん、チャリオ君、スタッフの皆様、いつも拝見しております。
さて、私の思い出の風景は、南腸市赤湯にある白竜湖と、向かい側の山腹に広がる葡萄畑にかかる、ピ二一ルハウスの風景です。
私は、十年前息子を突然失いました。三十数歳の息子が亡くなる3、4日前、「親父にもっと遊んで欲しかった」とつぶやいた言葉が今も頭から離れません。
思い起こせば、息子が生まれた頃から、家業が忙しくなり月に休めるのも一日か二日でした。
子育ては、すべて妻任せでした。
そんな中、息子と遊んだ思い出で残っているのは、ただ一つ、白竜湖での魚釣りです。
当時、白竜湖には、ボート屋があり、夜明け前ボートを借りて、湖の中央に二本の竹竿を湖底にさし、船を固定して釣りを始めました。
しばらくして、太陽が上がると、霧が晴れ向かい側の山の斜面に貼られたビニールハウスが光り輝き、とても綺麗でした。
昼になると、注文しておいた鳥そばをアルバイトの学生さんが私たちの船まで届けてくれました。
二人で、何も喋らず黙々と食べながら.、たまに顔を合わせるとニヤと笑っていました。
特別な話をしたわけではないのですが、息子と二人充実した、楽しい時間を夕方まで過ごしました。
そんな息子の心の変化を、一緒に暮らしていたにもかかわらず、気づいてやれず「遊んで欲しかった」の言葉も頭から離れず、未だにそこに行けません。
近くてなにか遠い、場所なのです。
正平さん、もし台竜湖のまえに立つことがあつたら、息子はまだそこに居る気がするので、「お前の分まで親父は頑張っているぞ」と声をかけてやってください。
何時か私もそこに行けるようになると思うのでお願いします。》
圧巻は夜のとうちゃこ版でした。雲の低い雨模様の空に白竜湖周辺湿地帯の風景が、手紙の雰囲気とみごとに調和していました。見終わって、モノクロのドラマを観たような気がしました。前日の米沢から高畠の旧石造駅舎まで、だれとも会わず言葉を交わさず、そしてこの日も満月食堂のおかみと話すまでずっと、正平さんのひとりごと。それだけに、おかみとのやり取りで手紙の鳥そばが満月食堂からの出前であったことが確認できた場面は、ドラマのクライマックスでした。そして最後の正平さんの言葉、「湿地帯でいいなこんなとこ。山形いいな。何でいいんだろ?俺の祖先にいたのか?」——このとき孝志君の霊を感じたように思いました。何よりの供養だったのではないでしょうか。
そして昨日、赤湯温泉旅館組合の事務所でもあるからころ館への集金と納品、「正平さんどこに泊まったか知ってる?」から始まって番組のことで盛り上がっていたちょうどそのとき、「あっ、満月のおかみ!」、なんと外にお風呂帰りのおかみの姿があったのです。実は満月食堂ののれんは当店製、知らない人ではありません。とっさに出て呼び止め「きのうは良かった!」と感激を伝えました。たくさんの人に見たと言われて驚いていること、前もってなんの打合せもない突然の訪問であったこと、ご主人が風呂に行っていたのでひとりで10人前の鳥そばを作ったこと、白竜湖のボート屋の加藤さんと親しかったので注文が来るとみんなして代り替わり出前を届けたこと・・・などを語っていただきました。佐藤さんが宮内の人で水道屋さんであることを伝えました。
私にはもろもろ不思議なシンクロニシティの体験でした。
山形県南陽市
放送日:6月1日
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