遠藤英先生「いま、なぜ鷹山公なのか」

昨日、白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会の講演会と総会。先週米沢での会合で案内を配らせていただいたぐらいで、私としては何もできないまま臨んだ会合だったのだが、遠藤先生の講演はほんとうによかった。
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英先生は、私が高校で現代国語を教えていただいた遠藤綺一郎先生の甥御さん。綺一郎先生はその後米沢女子短大に移られて多くの業績を残されるが、高校時代の授業、特に柳田国男の「雪国の春」、いまも中国江南の春の風景が目に浮かぶようだ。(といいつつ、後は何が書いてあったか思い出せなくて文庫本を注文。当地もいま桜がちょうど盛りでまさに雪国の春。)英先生は直江兼続のシンポジウムのパネラーとして壇上の先生と遠くからお会いしたことがあったが、近くでは初めて。綺一郎先生の面影と重なるところがある。綺一郎先生もいつも微笑みを絶やさぬ温厚な先生だった。

「ふつう歴史研究をなさる方というのは、その当時どうだったかということを研究なさるんですけれども、私の場合仕事柄、これからの時代に出てゆく子供たちが目の前にいますので、いまの視点から歴史を見るということを心がけています。」

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目賀多雲川筆とされる鷹山公像です。目賀多家は上杉家の御用絵師で代々雲川を襲名したようです。
この肖像画は信済が描いたものと思われます。信済は晩年の鷹山公に仕えています。

鷹山公の時代は元禄時代のバブルがはじけた後で、全国的に解決を求めようとしてもがき続ける時代だった。
「上杉藩に限っていえば、歴史的ないろんな経緯があって、経営規模と財政規模が一致しない。・・・全国の武士が人口に占める割合はだいたい10%なんですけれども、上杉藩が米沢で出発したときは70%以上だった。」
加えて、鷹山公が上杉家に入る前には宝暦の大飢饉が直撃。バブルのあと。放漫な財政運営。そして自然災害。時代状況としていまとぴったり、そうした中での鷹山公の登場だった。
「全国でいろいろな試みがなされるが、その中ではっきり成功を納めたとされるのが鷹山公。他になかなか例がない。」
そんなわけで、いまの時代、鷹山公から学ぶことがいろいろあるはず。
「このことを前提に『伝国の辞』を繙いてみたいと思います。」


この記事へのコメント

2013年04月30日 06:05
天見玲さんが、今朝の山形新聞「気炎」欄に、「声の記憶」として遠藤綺一郎先生のことを書いておられました。

《「あはれ花びら流れ」で始まる三好達治の詩「甃(いし)のうへ」を高校の国語の時間に諳誦した思い出を、本紙論説委員長・山川敏春さんが先日の本紙「土曜コラム」に書いておられる。それを読んで高校入学直後の国語の授業を思い出した。担当してくださったのは遠藤綺一郎先生。先生は「甃のうへ」を何度も朗読してくださった。
 その声が何とも上品で快く、不安でたまらなかった私を、みやびなそれでいてうら悲しい春愁の世界に連れ出してくれた。このとき初めて高校生になった喜びを味わったように思う。遠藤先生の朗読の声が50年たった今も耳朶に残っている。「声がいかに教育に大切であるか」を考える契機ともなった思い出である。》

天見さんのこの文章を読んで、
「紫陽花色のもののふるなり」(三好達治「乳母車」)
の言葉が浮かんできた。綺一郎先生の授業だったに違いない。

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