「南陽の菊まつり」百年(1)
12月15日発行「置賜の民俗」(置賜民俗学会誌)第19号に、鈴木孝一さん(宮内郷土資料館「時代(とき)の忘れもの」主宰)との連名で書いたものです。
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「南陽の菊まつり」百年
はじめに
今年の「南陽の菊まつり」は百回記念を謳っている。しかし、正確には第一回を大正元年(一九一二)として「百周年」は確かだが、戦中戦後五年の中断があるので、正確には「第九十五回」である。ポスターで歴史を辿ると、回を意識しだしたのは昭和四十七年(一九七二)で、この年は「六十周年」となっていた。しかしその三年後の昭和五十年にはなぜか「六十三回」となり、その後その回を踏襲して「第百回」に至ったのである。当時おそらく、回を重ねることの意味の重さが認識されだしていたのであろう。こうしたイベントの伝統を引き継いでゆくことはほんとうに大変なことだ。だから回は多いほど値打ちがでるにはちがいない。
「南陽の菊まつり」は、老舗的存在であった大阪枚方の菊まつりが平成十七年で一旦幕を閉じたことから、今年で一〇五年の笠間稲荷(茨城県)に次ぎ、二番目の歴史を誇る。ただし、笠間稲荷で菊人形を飾ったのは昭和二十三年からなので、菊人形展をもって「菊まつり」とするならば、百年の歴史はまさに日本一である。
宮内町、赤湯町、和郷村の二町一村が合併して南陽市になったのが昭和四十二年(一九六七)。昭和三十年代赤湯町当時、烏帽子山公園を会場にした菊まつりを開催して赤湯が宮内と張り合ったこともあったが、花笠音頭に「菊は宮内、あやめは長井、バラの名所は東沢」と歌われるがごとく、菊といえば宮内、宮内といえば菊であった。その宮内の菊まつりも、昨年から会場を宮内から花公園に移しての開催となった。かつての宮内の賑わいを知る人たちには淋しいことには違いないが、取り立てて反対の声もなかったのは時代の流れなのであろう。
「南陽の菊まつり」にどのような未来が待ち受けているのだろうか。このまま消えてゆくのか、それとも未来に可能性はあるのか。百年の節目に当たり、これまでの歴史を振り返りつつ未来への展望の芽を探ってみたい。
宮内と菊との関わりは、齊藤善四郎の存在をもって嚆矢とする。齊藤家は代々、宮内熊野大社例大祭における神輿渡御、獅子冠行事を取り仕切る獅子冠事務所の頭取を務める旧家である。善三郎は寛政年間(一七九〇頃)の生まれ、なかなかの風流人で、遠く関西より菊の種苗を入手して作花育成に精魂を傾け菊人形も試作したと伝わる。また造花の技にも優れ、嘉永二年(一八四九)十月十九日、藩主上杉斉憲公が赤湯温泉に入湯の折、つれづれを慰め申すべく造花の菊を献上申し上げたところ大いに喜ばれ、藩中第一との御嘉賞を賜り、御墨附と御酒肴を戴き、このことによって宮内の面目を一新したとの記録が残る。またこの年の十二月、米沢藩江戸桜田屋敷の御殿奉公に選ばれた娘を連れて上京。翌正月十日、不忍の弁財天に参詣の折、知り合いの役僧及び別当に造花を進呈、滞在した上野生池院(寛永寺弁天堂)に菊の造花十本ばかり立てておいたところ、「僧正様はじめ一山の旦那方」の目にとまり「江戸にて見たこともなき珍しき造花」と褒められて、宮様日光大楽王院宮慈性法親王への献上の栄を得た。齊藤家所蔵の東叡山不忍寶珠院からの褒賞目録によると、白銀一枚、茶一斤のほか、「花菖蒲根分け五〇株」を賜ったという。錦三郎氏は、宮内の菖蒲沢という地名はもとより、長井あやめ公園の長井古種もこの時の花菖蒲に由来するのではと推量する。明治五年(一八七二)に米沢の画家伊藤木梯によって描かれた肖像画には齋藤篤信の讃がある。曰く「士而僊 非僊非士 此翁愛百花・・・」。善四郎は百花園實秀を名乗っていた。以後齊藤家は「百花園」を号して現在に至る。菅原白龍揮毫の「百花園」号額が残る。
善四郎は花弁を愛して多種の珍草百花を栽培して町民の慰安に資し、さらには一木一草を無料で愛好者に分与、宮内に菊や菖蒲、牡丹等花づくり気運の種を蒔いたという。慶応三年(一八六七)に亡くなり、その子千代次(明治二十九年没)が善四郎を襲名する。二代目善四郎は田畑仕事を嫌って表具師となるが、妻の登輿が働き者で代わって菊を作るようになり、秋になると菊見の客がたくさん来るので、ただ見せるだけではもったいないと、餅を搗いて売ったところが一日に二斗も売れて大変儲かったという。ここに、宮内における興行としての菊まつりの原点を見る。登輿は明治三十四年に七十歳で亡くなっている。
一方明治二十四年(一八九一)、米沢から宮内に移った医師佐藤大覚がさらに菊花栽培の気運に火を点けた。横町の佐藤医院の屋敷は秋になると芳香秀逸の菊の万花に埋もれて、道行く人の多くが足を留めたとの記録がある。佐藤医師は、当時宮内におこりつつあった本格的な菊づくりの代表的存在だったのだろうか。
2.菊花品評会のはじまり
菊花品評会へと飛躍してゆく宮内の菊作りの元祖として粡町長沢代吉の名が挙がる。明治の末期、隣家の中山源之助等とともに試行錯誤が始まった。「当時は未だ幼稚なもので、品種といい栽培の技術といい隔世の感がある。大づくりを主とした関係で、一株六〇輪以上もつけ得る腕前になったので、自らの楽しみだけでは満たされない自負心にかられて、持寄り観賞を思いたった。この品評会開催を観月楼主(笠原)板垣幸助氏に相談をかけた。早速の賛成で会場の提供、経費負担の一切を快諾せられたので、仕事は快速に進展、大正三年第一回宮内町菊花品評会を開くに至った。」 そして言う。「以来逐年隆昌を加え、宮内商工会に引き継ぐまで二〇回の継続を見た。個人的の品評会としては、誠に誇りある伝統を残したものといってよい。」(昭和二十三年度版「宮内町政要覧」)
板垣幸助は惜しみなく私財を投じ、長沢等と共に全国の菊花の研究にも余念なく、また米沢、長井、荒砥等の同好の士を合同して一市三郡切花品評会の開催にまで至った。この経費総額は三〇円余。長沢、中山のほか、船山喜右衛門、湯村亀五郎、鈴木栄太郎等が第一回開催の中心を担った。その後回を重ねるごとに盛大となり、前記のほか山岸次三郎、片野儀三郎、菊地熊吉、平重次、阿部乙松、菅野三郎等が指導者格であった。
菊花品評会の初期においては、一本の苗から数多くの花を咲かせる大作りが主であったという。大作りは文化初年頃から始まった菊の細工栽培が端緒で、菊人形もここから転化した。清楚を旨とする本来の菊の姿からすれば邪道との見方もあったが、一般からはおおいに歓迎され、興行的価値もあって大正末期までこの傾向は続いた。
3.菊人形のはじまり
明治の終わりから大正のはじめ、製糸業全盛の時代だった。とりわけ置賜においては、明治初期から取り入れた、煮繭と繰り糸をそれぞれ分業して行う煮渡式沈繰法によって極めて上質な生糸を生産し、「羽前エキストラ」(飛切格)として海外からも高い評価を得ていた。優秀な女工の年収は三〇〇円余、「娘三人で蔵が建つ」と言われたのも決して誇張ではなかった。宮内には、製糸業の活況を背景に華やかな料亭文化が花開いていた。
「大正元年当時の山崎屋料亭主人が、ささやかな菊人形を飾ったのが宮内菊人形の始りでこれが端緒となって、翌年笠原料亭の飾りつけとなり、数年をへだてて宮沢料亭もこれに和して東京から人形師を招いて大いに面目を一新させた。」(昭和二十三年度版「宮内町政要覧」)
菊花品評会の会場であった料亭笠原「観月楼」の当主は幸助の代から善三郎(明治二年生 昭和六年没)に代わっていた。善三郎は百花園齊藤千代次(二代目善四郎)の次男で菊の先覚者齊藤善四郎の孫にあたる。山形師範卒で吉島小学校等の校長を務め、その後宮内町の助役に抜擢される。「菊の助役か、助役の菊か」と言われるほど菊に執心だったという。善三郎は金を惜しまず新種の購入を行うとともに、品評会幹部を帯同して菊栽培の先進地である清水港、東京、大阪、八戸等への研究視察を行った。さらに東京から吉田銀次郎あるいは庄田七郎兵衛といった菊人形の第一人者を招いて、本格的な菊人形のノウハウを宮内の地に導入することになった。
実は宮内に菊人形が登場する十年ほど前から、高畠町の「福島楼」という料亭ですでに菊人形が飾られていた。女将竹田マキ子が菊を栽培し菊人形制作の中心を担っていた。二十数年を経た昭和十年の米沢新聞に「高畠町の菊人形は古くから有名だったが近年宮内町に奪われて賑はないのを遺憾とし・・・」、それゆえ、この年東京から菊人形師を招いて梃入れを図ったとの記事がある。また、昭和十一年に出された「菊の宮内」特集タブロイド紙(赤湯町・温泉タイムス社発行)の「菊花をめぐる宮内座談会」の中で「今年は高畠でも相当やり出して往年の勢力を盛り返したいと苦心しているそうですよ」とも語られている。宮内の菊人形の初期の段階では高畠や荒砥から人形を借りていたこともわかっている。自前の菊人形になるには菊地熊吉の登場を待たねばならない。(つづく)
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